殺意と計画性の有無が争点(2011/08/04)

外国人教師殺害事件。
何年も逃亡していた容疑者が逮捕された。

この事件に限らず、凶悪事件の裁判になると、必ず「殺意の有無・計画性の有無」が争点になる。
毎度毎度、これには違和感を覚える。

犯行の一連の流れを見ると、もはや計画性の有無など関係ないほど凶悪。
犯行に至った動機・理由を聞いても、正常な人間の思考とはとても思えない。
ここまで狂ったら、もはや人間扱いする必要はないと思う。

逃げて、顔の整形を繰り返して、所在を点々として、最後の最後まで逃げ通そうとした人間が、
どれだけ謝罪しようが、そこに誠意も反省もあるわけが無い。
例え一時パニックになって逃げたとしても、本当に反省してるなら自首するでしょ。
でも自首しなかった。あわよくば一生逃げ続けようとしたわけだ。

そいつがいくら涙を流して見せたところで、「捕まった事」を悔やみ反省してるに過ぎない。
もはや真に反省しているかどうか、殺意・計画性があったかどうか、なんて関係ないでしょ。
これだけ計画的に逃げ続けてきたんだから。

手足を縛られ、強姦され、首を絞められ、死んでいった被害者の、長い時間に及ぶ恐怖を考えれば、
むしろ明確な殺意と計画性を持って、一思いに殺してもらったほうがよっぽど苦しまないで済んだってもんだよ。

長い時間をかけて生殺しのような恐怖を与え続けた上で殺したけど、殺意も計画性も無かった、っていう場合と
殺意と計画性があって一思いに殺した、っていう場合で、
後者は死刑、前者は情状酌量?その差は何? 全く意味が分からん。

結局求刑は無期懲役になったけど、ホントにそんなんでいいの?
死刑を求刑できないのは殺したのが一人だから? 殺された命と容疑者の命、どっちが重いの?
殺したのが一人とはいえ、凶悪な犯行、そして顔を変えながら逃げ延びようとした事実を考えたら、自分は極刑が妥当だと思う。
こんなんじゃ被害者だって浮かばれない。 被害者の両親の無念を思うと言葉もない。
ヤツは本当に生かしておくだけの価値がある人間なのか?


日本の裁判は、計画性があったかとか、深く反省しているかとか、犯人の気持ちを重視した裁判。
被害者の気持ちが軽視されてる印象が強い。
もっと被害者の気持ちを優先した裁判に変わっていくべきだと思う。