推し、燃ゆ、明日も (2021/02/03)
芥川賞受賞作品 「推し、燃ゆ」 を読んでみた。賞を取ったからといって必ずしも面白いとは限らない。
過去に、受賞作が全くつまらなくて、途中で読むのを断念した作品もある。
受賞作は大量に売れるから、 ちょっと待っていればすぐに古本屋にも大量に並ぶだろうというイヤラシイ考えもある。
でもこれは、テーマ的に興味があったので、すぐに読もうと思った。
「推し」に情熱を注ぐ人の話。
このテーマを聞いたときに、SHISHAMOのヒット曲「明日も」が思い浮かんだ。
聴くたびに泣きそうになるくらい感動する、大好きな曲。
社会や学校に馴染めない女の子が、週末に「ヒーロー」に会いに行く事を心の支えに頑張るって曲。
走り方をヒーローが教えてくれる♪
そのヒーローが有名芸能人なのか、地下アイドルなのか、はたまたアニメ等の架空の人物なのか、曲の中では明らかにされていない。
ヒーローが走り方を教えてくれると言うが、そのヒーローは、悩み相談も生き方の指南も、多分してないと思う。
ただ彼を見て、元気になったり、何かを教えてもらってる気になってるだけだと思う。
だけど「ヒーローに自分を重ねて明日も」頑張ろうとしている姿、その健気さに、ジーンとくる。
「推し」に給料の大半を注ぐ人達が、実際にいる。すごいな~って思う。
女子2人のこんな会話を聞いた事がある。
「全財産注ぐ!とにかく金持ちになって欲しいんだよね!自家用ジェット買わせてあげたい!」
自分にも好きな芸能人がいるが、 観たいから観る、聴きたいものを聴く、欲しいものがあったら買う。それだけ。
そこに「潤って欲しいから」という感覚は無い。
例えば、何か音楽ソフトやグッズを買ったとして そのお金が全てその人の所に行くのなら、まだ理解できる。
でも利益のほとんどは事務所とかプロデューサーに行き、本人への実入りは極一部であるはず。
そう考えると、たとえ「潤って欲しい」と思ったところで、
自分レベルが出したお金など、本人に対する貢献度が低すぎて空しい、と感じてしまう自分は、純粋さを失ってるだけなんだろうか。
だから、絶対に自分のものにはならないし、自分を単なるファンの一人としてしか見ていない、または認識すらしていないであろう相手に、
なぜそこまで身を削って情熱・金銭を捧げられるのか、とても不思議で、興味があるのです。